本知恵ノートの目的

筆者は何も成田空港反対過激派の中核派ほか極左諸団体、動労千葉の味方をしたくて本稿を執筆したのではない。最近、一部航空会社や創価学会公明党政治家、官僚、一部都民や特に神奈川県民の成田に対する言動は目に余るものがあり、

 

勝手に成田に土足で踏み込んできて空港作っときながら欠陥空港呼ばわり、挙句の果てには羽田再々拡張論を展開している始末である。この国の航空行政がちゃらんぽらんで勉強不足だからこうなるのだが、なぜ千葉の畑の中に空港建てなきゃいけなかったのか、なぜ極左が集まって棲み付いてしまったのかこれを読んで少しは勉強しろ!!

 

それが本項の目的である。

 

新空港建設の必要性

1960年代になると、大型ジェット旅客機の増加に加え高度経済成長により年々増大する国際輸送における航空機の重要性が高まったため、滑走路の拡充による発着能力の向上が望まれた。加えて、1960年代中に就航すると予想され日本航空も発注した超音速旅客機の就航による滑走路の長大化も求められた

 

そのため、羽田空港の再拡張により航空需要に対応しようと検討が開始されたが、

 

①羽田空港を沖合へ拡張した場合、東京港の港湾計画との調整が極めて難しい。
②当時の港湾土木技術では不可能であった。
③アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田ラプコン」)などとの兼ね合いから、

  航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける。
④仮に拡張できたとしても、空港の処理能力は20% - 30%程度の増加に留まる。

 

などの理由から羽田空港の拡張のみでは長期的な航空機輸送需要の増加に対応できないことが判明した。

 

ボーイング2707

◇超音速旅客機 ボーイング2707(スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

ボーイング社が計画していた超音速旅客機。巡航速度がマッハ2.7であることと、当時最新鋭のジェット機だったボーイング707にあやかり、『次世代の707』となることを願って2707と名づけられた。

 

しかし超音速飛行時のソニックブームと騒音が懸念されアメリカで盛大な反対運動が発生、開発は凍結され実現しなかった。  

 

 

新空港建設候補地の検討と“新東京国際空港”の誕生

このため、再拡張の検討に合わせて1962年より新たな東京国際空港の候補地についての調査が開始されたほか、当時の財界実力者である松永安左エ門(私設シンクタンク産業計画会議議長、電力中央研究所理事長)が、1964年3月4日に『新たな東京国際空港』の開設を提言した。

 

これらの動きを受けて、当時の運輸省は1965年6月1日に成立した「新東京国際空港公団法案」をもとに「新東京国際空港」として新東京国際空港公団を中心に新空港を建設するための候補地の検討に入った。
 
千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地や印旛郡富里村(現・富里市)、茨城県霞ケ浦、横浜市金沢区の金沢八景沖の埋め立て地などが候補地とされ、様々な観点から検討が行われた結果、当時の自由民主党副総裁で、「政界有数の実力者」と言われた川島正次郎の地元の千葉県富里村が建設予定地とされた

 

しかし、それは富里村全体を廃村にするということを意味していた(当初の新東京国際空港の面積は現在の成田空港の2倍、それは富里村全体の面積に匹敵する)。当然、富里村は空港の建設に強硬に反対、用地買収などをめぐり地元自治体との調整は難航した。

 

 新東京国際空港原案

◇新東京国際空港原案(スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

千葉県富里村(当時)に建設が計画された際の新東京国際空港。4000mの滑走路が2本、2500mの滑走路が2本、横風用3600m滑走路が1本、計5本の滑走路と巨大なターミナルを多数持つJFKに勝るとも劣らない超巨大空港として計画された。

もしこのまま空港が建設されていたら『富里空港』とよばれていたのだろうか。

 

 

1966年、そして成田へ ~すべての始まり~

1966年7月4日、佐藤栄作内閣(中村寅太運輸大臣)は、建設予定地を富里の隣町の成田市三里塚に変更することを閣議決定した。

 

これは、国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林が予定敷地の4割を占め、周辺の土地は開拓農民(その多くは満州からの引き揚げ者)の物であったため、カネさえ詰めば農民は容易に土地を手放すだろうと考えたためである。

 新東京国際空港計画図(成田移転後)

 ◇新東京国際空港計画図(スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

建設地が成田市三里塚に変更された後の新東京国際空港の計画図。当初の原案からかなり現実的になり面積も半分、滑走路も4000mが1本、2500mが1本、横風用3200mが1本と半数に減っている。

 

 

成田周辺一帯の反対運動と三里塚芝山連合空港反対同盟

しかし、三里塚・芝山一帯の開拓農民にとってこれは寝耳に水の話だった。彼らの多くは戦後に成田の原野を自分達で開拓して農地を切り開き、開拓20年を経てやっと農家として経営が軌道に乗った段階だった。

 

しかも佐藤栄作内閣は事前に成田市には何の説明もなく新空港建設を閣議決定したため、地元住民はある日突然補償金を受け取り立ち退くよう求められた。

 

当然、地元農民の一部は買収に伴う移転や騒音問題から空港建設に猛烈に反発し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し反対活動を開始した。最初はデモ行進を行う程度の反対運動だったが、当時大学などで学生運動などを主導していた新左翼がこれに呼応し、全国から活動家が集結、次第に過激化・大規模化・ゲリラ化していった(三里塚闘争)。

 

 三里塚空港反対運動

◇新東京国際空港用地明け渡しの強制代執行を阻止しようとする反対派の様子(1971年、スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

 

 

空港反対同盟の反対運動により用地買収は停滞したため、政府は土地収用法に基づき行政代執行を1971年に2回行い、1期工事の用地を取得した。

 

この際、警備の警察官3名が反対派による襲撃を受け殉職した(東峰十字路事件)。また、反対派は鉄塔を建てて対抗したが、1977年5月6日に撤去された。これに抗議する集会で反対派と機動隊が激突し、学生1名が死亡した。また同年、5月6日に芝山町長宅警官詰め所が襲撃され、警察官1名が殉職した。

 

 ◇強制代執行の際の反対同盟の記録映画 

 

 

 

 

開港4日前の管制塔選挙事件と開港延期

開港4日前にあたる1978年3月26日、反対派ゲリラが新東京国際空港の管制塔に乱入し管制塔内の機器を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)ため、開港が5月20日まで延期となった。

 

◇新東京国際空港 管制塔占拠事件(1978年)

 

 

関連して1978年5月5日には京成電鉄の特急「スカイライナー」用車両が宗吾車庫で放火され、1両が焼失したほか、数編成が被害(後に復旧)を受けダイヤに支障をきたした(京成スカイライナー放火事件)。開港後も過激派の活動が続き、警察は厳重な警備を敷いた。

 

初代スカイライナー

  ◇初代「京成スカイライナー」(スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

 

 福田赳夫内閣は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」を制定した。

 

この管制塔襲撃事件を契機に、空港の安全確保のため、千葉県警察本部警備部に新東京国際空港警備隊が発足し、現在の成田国際空港警備隊に至っている。

 

 

福田赳夫

◇管制塔占拠事件を受けての新東京国際空港開港延期で渋い表情の福田赳夫総理(1978年3月28日、スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

 

 

誰一人祝う者なき嵐の中の開港(1978年5月20日)

1978年5月20日、13000人の警察機動隊が厳戒態勢をしく中、新東京国際空港は開港した。映像や公式的な記録は何一つ残されていない。

 

だがビックデータを調べるだけ調べたら、新東京国際空港の開港式の記録が出てきた。現状でこれ以外の記録はほとんど残っていない。

 

空港会社は開港の日は晴れだったとしているが、実際はひどい嵐だったようだ。

 

 

        嵐 の 中 の 開 港 式

                (1978年5月20日新東京国際空港開港)
漆黒の闇の中で エプロンを照らす投光器の光芒を、よこなぐりの 激しい雨が降りつのっていた。天井の高い 新築ロビーの巨大なガラス壁面を通して 外の嵐はうかがい知れるのだが、雨あらしの音は まったく聞こえない。昭和53年5月20日の関東地方には、強い嵐が襲っていた。台風4号が南方洋上にあり 神奈川県海老名市の1時間雨量は 51ミリに達して、首都圏の通勤時間帯には 交通機関の乱れが発生しそうだった。

 

日付が変わる午前零時、新東京(成田)国際空港の広大なロビーの一画で 空港公団関係者 52人だけの簡素な 「開港式」 が執り行なわれた。神事のあと 総裁の宣言、若干の祝電が、深夜 皓々と照明が灯された空間に 空しくこだました。もちろん 売店などは閉ざされ 人影はなかった。いや 空港内の至るところの物陰に、 膨大な数の警察機動隊が潜み 厳重な警戒網が張り巡らされていた。さらに空港の周囲には 数千にのぼる 「開港反対勢力」 が雨のなかで 隙あらば…と屯していた。 ロビーに政府要人は 誰ひとり姿を見せず 式典は形ばかり、ごく短時間で終了したが 緊張感こそあれ、晴れ晴れしい笑顔を見ることはなかった。

 

翌21日から 空港は運航を開始、午前8時34分 到着第1便は ロサンゼルス発日本航空貨物便、旅客機の到着第1便は フランクフルト発日本航空 午後零時04分着陸。出発旅客便は 22日 サイパン・グアム行だった。航空機運行開始と同時に 京成電鉄空港線 (京成成田駅~成田空港駅) が開業。京成上野駅からの特急 “スカイライナー” が運行し始めている。

(私の記憶フィルターで濾過した 昭和のデキゴトロジー 新東京国際空港 日本の悲劇1より)

 

 

新東京国際空港

◇開港した新東京国際空港(1980年代後半? スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

はげしい反対運動の中、新東京国際空港は結局滑走路1本で開港した。まだ東関東自動車道もなく、空港へ行くには一日がかりだった。開港当時から既に「成田空港」と呼ばれていた。政府関係者はよっぽど新東京国際空港のことは忘れたいのか、新東京国際空港時代の写真はこのカットを含め数点しか残っていない。

 

◇新東京国際空港開港記念キーホルダー【千葉県警】(unarikun691所蔵、重要文化財)

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新東京国際空港開港当時、空港を警備していた機動隊員の一部に配られたものと見られている。キーホルダーといってもずっしりと重量があり、記念品の風格が。こんなもんを関係者に配らねばならないほど新東京国際空港の警備は危険で命がけだったのである。爆弾と火炎瓶持ってる反対派ゲリラに盾と警棒と放水だけで闘わないといけなかったから。

 

空港外への破壊活動の飛び火と国民感情の乖離

開港後も反対同盟は「百日戦闘宣言」を発し、ゲリラや滑走路の延長線上にアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やしての航空妨害が続き、警察は厳重な警備を敷いた。

 

過激な破壊行為による反対運動に対しては、主に警察力を用いた封じ込め策が図られたものの、中核派はそれを嘲笑うかの様に、1978年5月5日、京成電鉄が開港後の空港連絡列車「スカイライナー」に投入するため新製し車庫に留置されていたAE形車両を放火し、4両を全半焼させるというテロ事件・京成スカイライナー放火事件を引き起こした。また、5月19日にも京成本線5ヶ所で同時多発列車妨害事件を引き起こした。

 

周辺住民の日常の足だった京成電鉄車両への放火は、もはや空港反対運動の枠を超えた単なる社会基盤・インフラに対するテロであり、周辺住民の反対派に対する同情は冷めていった。上記の管制塔占拠事件も含めて、空港反対派と新左翼は同列視されるようになり、大半の国民が反対運動そのものを「特異な思想を持った限られた人間による反社会的テロ行為」として捉えるようになっていった。

 

農村部の過疎化が加速し始めた時期とも重なり、このまま衰退するよりは空港と共生する道を模索するべきという意見が主流派を占める様になっていった。また、反対運動開始当初は同情的だったマスコミも、この頃には新左翼とテロリズムの影ばかりが目立つ状況に距離を置く様になり、反対派は孤立無援の状況へ追い込まれていった。

 開港当日の朝日新聞

◇新東京国際空港開港当日の朝日新聞紙面(1978年5月20日、スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

何と!! あの朝日新聞ですら反対派に距離を置くような書き方( ゚д゚)ポカーン 同軸ケーブルは動労千葉の人が間違って切っちゃったのかもしれない等とは一言も書かれていない!!

 

何と言うマスゴミの乖離っぷり(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 

あ、まだこの頃の朝日新聞は中の人がB地区と朝鮮人じゃなかっただけか(ホッ・・・)

 

空港反対同盟の内ゲバと分裂

 1980年代、反対運動は一定の力を維持し、二期工事の着工をしばらく阻んでいたが、三里塚・芝山空港反対同盟は、主に「一坪再共有化運動」(空港予定地となっている農家の土地を多くの支援者で共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせようとする運動。沖縄の反米軍基地運動の「一坪反戦地主運動」からヒントを得ている)の是非をめぐって分裂した。

 

①現在の空港用地の内部に自分達の土地を持っていた農家は空港用地の再共有化に反対、これらの農家の多くは中核派傘下であり、中核派は一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対、これらの人々が『北原派』を結成した。

 

②成田空港の外の騒音地域に土地を持つ農家の多くが再共有化に賛成、空港用地の再共有化を推し進めようとする第四インター(注:極左団体の名称)と共に『熱田派』を作った。

 

 

中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して、1984年1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせる暴行を働いた。7月にふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせる暴行を働いた。また中核派は「熱田派」農民や第四インター派メンバー、あるいは「一坪共有者」の自宅や職場を「訪問」または脅迫電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を行った。

 

 

③1987年9月、こうした中核派への反発を背景に北原派農家の大半が離脱して『小川派』が結成された。

 

 

一般人への『テロ』の拡大

新左翼テロリストの暴走は第四インター派メンバー襲撃事件などの内ゲバを契機に加速し、一般人をターゲットとしたテロ攻撃を起こすことになった。

 

1985年(昭和60年)10月20日には千葉県成田市の三里塚交差点で空港反対同盟(北原派)支援の新左翼党派と警視庁機動隊が衝突した事件が発生した(10.20成田現地闘争)。

 

◇10・20成田現地闘争(1985年10月20日、反対派制作動画)

 

 

 

1988年9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長だった弁護士の小川彰が、フルフェイスのヘルメットをかぶった数人に襲われる(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。小川は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負い、このテロによる重い後遺症に苦しみ2003年7月に自殺する。

 

このテロに中核派は犯行声明を出し、収用委員に組織的に脅迫状、脅迫電話などを送り続けた。これにより収用委員全員が辞任し、千葉県収用委員会は2004年に再始動するまでの16年間、完全に機能停止に追い込まれた。

 

 

プラザ合意と円高の進行、「時代」が押し流した空港反対運動

1980年代後半から『成田闘争』と呼ばれた成田空港反対運動は急速に沈静化していった。背景には1985年のプラザ合意に始まる円高の進行と日本人の生活水準の劇的な向上があったと考えられる。

 

1985年9月22日、G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)において、1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れた先進国は協調的なドル安を図ることで合意した。とりわけ、アメリカの対日貿易赤字が顕著であったため、 実質的に円高ドル安に誘導することで合意した。

 

もっと端的に言うと、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランスが、「自動車や電機などの分野で日本が独り勝ち状態になりすぎているのは円が安すぎるからである」と主張、4カ国で日本に為替を円高へ誘導するよう圧力をかけたのである。ニューヨークのプラザホテルで開かれたこの会議は、歴史的な会議ではあったが、事前に内容は決められており、会議自体の所要時間はわずか20分程度であったといわれる。

 

1985年には1ドル=240円程度であったものが、たった1年で1ドル=150円程度まで円高が進行、日本の輸出産業の競争力が落ちた代わりに輸入品が劇的に安くなり、日本人の生活水準は劇的に向上していった。1986年にはウルグアイラウンドが始まりアメリカから米国産の牛肉・オレンジの輸入を自由化するよう圧力がかかり、1993年に完全自由化された。また1985年にはバブル景気が始まっている。また1985年あたりから海外旅行に行く日本人が指数関数的に増加し始めた。

 

◇海外旅行者数の推移

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/6900.html

 

あふれるマネーとモノ、人間は豊かになると物事を考えなくなるものである。学生は学生運動なんかに参加するよりも綺麗な服を着てガールフレンドを車に乗せて華麗なキャンパス・ライフを送る方が良くなり農村部の若者は都会へ出て行き農村部は過疎化、成田空港反対運動の担い手は消えていった。空港反対運動は「時代」が押し流したのである。


※なお反対運動自体は下火になったが、成田空港反対過激派と反対運動自体は

今日まで存続している

 

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 ◇成田空港でハワイ行きの飛行機に列をなす人々(1979年、スーパーコンピューター クリ(( ´ー` |) ミディ2010所蔵)

 

この頃の日本人にとって、海外旅行=ハワイ旅行だった。米国でもっとも貧しい州だったハワイ州を観光業で儲けさせたいアメリカ側の思惑と、月給1ヶ月分で行ける格安海外旅行を実現したい日本側の思惑が一致、日本人にハワイの南国リゾートイメージを刷り込んで洗脳した。なお、ハワイへ行く飛行機のイメージはジャンボ機(ボーイング747だった)。ジャンボキ機でハワイ旅行へ行くことが日本人にとって海外旅行・豊かさの象徴であり、日本の小学生は夏休みにハワイに行ったといえば大金持ちの大スター扱いされた。なおハワイ土産の定番はパイナップルだった(当時パイナップルは超高級品だった)。

 

こうして最盛期には1日に3000人もの日本人が成田空港からハワイへ飛び立っていった。

 

 

女性の会社進出と、成田空港が生んだ珍現象

プラザ合意の翌年の1986年、男女雇用機会均等法が施行された。女性であることを理由とした雇用・賃金・職種・配置転換時の差別の禁止、結婚・妊娠・出産を理由とする退職強要や配置転換の禁止、出産・育児後の社会復帰制度や女性へのセクハラ防止対策が義務付けられた。

 

更には女性であっても大学まで行き、企業の管理職に就いて「キャリア・ウーマン」となることが奨励され、女性の社会的地位が激的に向上した。女性の地位向上と成田空港からの海外旅行は様々な社会現象を生み出した。

 

◇成田離婚

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http://ja.wikipedia.org/wiki/成田離婚

 

成田離婚は新婚旅行へ行った新郎新婦が成田空港へ帰ったきた直後に、主に新婦側から三行半を突きつけられ離婚してしまう現象である。当時は未婚女性が海外旅行を楽しむ機会が多くなった一方、男性には海外渡航経験が少ない傾向があり、国内では「立派に見えた」夫が、慣れない海外でトラブルの際などに適切な行動ができなかったことなどが原因で口論になり、しまいには離婚に至ったというケースが多いとも説明された。

 

この背景には「新婚旅行に夢を膨らまし準備周到、しかしながら現地での行動などにおいて最終的に男性に多くを期待、依存しがちな女性」と、「新婚旅行直前まで仕事が忙しくが十分な準備ができない上、女性からの一方的な期待、依存に応えることができない男性」とのすれ違いがあるとされる。

 

 

◇パリ症候群

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http://ja.wikipedia.org/wiki/パリ症候群

 

パリ症候群(syndrome de Paris ,Paris syndrome)とは、異文化における適応障害の一種であり、カルチャーショックの一種。主に若い日本人女性が「流行の発信地」などといったイメージに憧れてパリで暮らし始め、現実のパリや現地の習慣や文化などにうまく適応できずに精神的なバランスを崩し鬱病に近い症状を訴える状態を指す。

 

発症者の多くは、裕福な家庭に育った20 - 30代の日本人女性である。多くの者は小説や映画などによってつくられた『パリのイメージ』に影響を受け、パリでファッション・旅行・メディアなどの仕事に就くことを希望したり留学のため渡仏した場合が多い。

 

日仏医学協会会長のマリオ・ルヌーによれば、そのイメージとは具体的には「街中をモデルのような人たちが歩いていて、みんなヴィトンを身に着けていて……」― というようなものが好例で、現実のパリとは程遠いこうした虚飾を煽り立てているのが雑誌などのマスメディアであるという。

 

内的な要因としては、前出の様に胸に描いてきた理想のパリと現実のそれとのあまりの落差(好例は「絵画のような美しい街並」とのイメージに対する現実の薄汚れた街並など)に対する当惑や、求める職が見つからない、語学(フランス語)も上達しない、などが重なることである。外的な要因としては、「場の空気」と表現されるような、感情を敏感に察してくれる日本でのコミュニケーションと異なる、自分の主張を明確に伝えることが要求されるフランス文化に適応できなくなっていることがある。

 

典型的な症状としては「フランス人が自分たちを差別している」などの妄想や幻覚を抱く、パリに受け入れられない自分を責める、などである。